日記:祖父と映画

祖父は病床に臥してからも、夢の中で忙しかったようです。

思い通りにうまく進んでいなかったんでしょうか
目を覚ますと、母に、時折スケジュールの話をしていたようです。
細い声で、”三船プロが、黒澤さんが”とつぶやく。
錚々たる人物と一緒に、祖父は夢の中でなんの映画を撮っていたんでしょうね。

黒澤明監督の「生きる」が、祖父のはじめての仕事だったようです。
東宝の公式な記録には残っていませんが、録音をするチームの下で、マイクマンを担当していたとのこと。
本人はあまり主張しませんでしたが、クランクアップ時にとる集合写真に確かに写り込んでいました。
10年ほど前の、日芸のインタビュー調査記録にとても細かく残されています。

(聞き手)『生きる』はどうでした。
(祖父)僕は、『生きる』についたために映画界にずっと残ったというようなものです。『生きる』について、まず台本、赤い表示の『生きる』というあの有名な厚い台本渡されまして、いやあ、すごいいい作品つかせてもらう。当時『羅生門』のこと知っていますから、この『生きる』はすごい監督、いい監督だと思って、その台本を意気揚々と抱えながら撮影所に通って―――。

どんな小さなことであっても、初めての仕事は忘れないというけれど、
黒澤組の現場となれば、そうそう忘れられないでしょう。
世界のクロサワの現場だ。きっと、とても衝撃的な体験をしたことでしょう。
撮影現場のドキュメンタリーをまとめた本の中に、脚本と共に並走するスタッフの苦労が細かく記録されているので読んでみました。
祖父のインタビューとシンクロする部分もたくさん書かれています。
特に、物語中盤のキャバレーの撮影。
とんでもないセットの大きさ、望遠で撮る手法。
その空間で音をひろう大変さは…素人の私でも、想像に難くありません。

***

映画は不滅だと信じて、社員としての出世よりも録音技師の道を選んで40年。
あのゴジラも含め、いろんな作品に携わっていましたが
あとからインタビューの内容や、残された蔵書の内容を見てみますと
現場での録音の仕事だけではなく、
スタジオや編集室の環境整備や運用にも多くの熱量を注いでいたことがわかってきました。

地道で目立たない仕事だと思います。
が、その環境を作ったことは録音の仕事と同じぐらい誇らしかったようで、
撮影所に遊びに行った時には、たしかに、そういった場所を見せたくて見せたくてしょうがない様子でした
ここ沢山の作品が生まれていったんだと思うと、
映画の歴史には欠かせない一人だったんだな…と。

***

もう少し、仕事の方の話を聞いてあげられたら良かったなと思ったものの、むこうの世界に呼ばれて行ってしまいました。
でも、きっといろんな監督や役者さんと再会して、きっと新作の準備に取り掛かっているところ、かなと。

いつかその映画が見られるのを楽しみにしておきつつ、
ずっと付き添っていた母と祖母をしっかり労うために、しばらくはこっちで頑張ります。

初仕事、22歳のころ。

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